ただの日記

毎日が週末

2020/04/05

今日は久しぶりに人と会話をした。
会話というか、ちょっとしたコミュニケーションを取っただけだが、私にとってはかなりハードルが高い時間だった。

田舎で生まれ育ったので、幼稚園から中学生まで、私の周りを囲む友人は殆ど変わらないまま過ごしてきた。彼らは私にとって、友達というよりも兄弟の方が感覚的に近い。時には大きくぶつかり、時には優しく受け止めてくれる、かけがえのない存在だ。そんな彼らには、ありのままの私を、私の全てを、見せることが出来る。しかし、高校進学と共に、私の周りを囲む環境は大きく変わった。長い時間を共に駆け抜けてきた彼らは居ない。新しい場所で、新しい友達を作らなくちゃいけなかった。
人懐っこい彼らはすぐに新しい友達を作り、新しい世界を満喫していた。でも、私にはその方法が分からなかった。「友達は作るものじゃなくて、自然と出来るものだよ」と彼らから教わったが、どうしても私にはそれが出来なかった。
そこでようやく気が付いた。私は、いわゆる人見知りだったのだと。とはいえ、孤独な高校生活を送った訳じゃない。人見知りでも、コミュ障ではない。きちんと会話を成立させることは出来るので、一緒に勉強をしたり、昼ごはんを食べたり、遊びに出かけたりする相手は出来た。なんなら、成績表の個別評価の欄に「多数の友人に囲まれ人望が厚く、コミュニケーション能力に長けている」とまで書かれたこともある。人見知りということを隠し通して3年間を生きてきたのだ。間違いない、コミュニケーション能力は長けている方だろう。
ただ、胸を張って友達と呼べる相手は出来なかった。そもそも友達の定義とは何なのだろうか。私が一方的に友達だと思っていても、向こうはただのクラスメイトとして見ているかもしれない。そう考えると、私はいつまでも友達が出来る気がしなかった。
私は高校卒業後、上京し都会へ出てきた。田舎である地元よりも何百倍も人で溢れかえった都会を見ていると、私は徐々に人をこわがるようになった。あの時のコミュニケーション能力はもうほとんど無い。初対面の人には当たり障りなく接する事が出来ていたのに、今ではどんな「人」でもこわい。誰が何を考えているか分からなくて、どんな風に思われているかばかりが気になって、今は人がこわくて仕方ない。
人がこわくて仕方ないくせに、就いていた仕事がゴリゴリのバキバキのガッチガチの接客業だから笑う。仕事だからと割り切ってしまえば案外いけるもんだったが、店へ来るたくさんの人を見て、こわくて震えてトイレで泣いた事もある。

そんな私は今、他者との関わりが全くないノンストレスな生活を送っている。Instagramもログアウトしたし、LINEの友達整理もした。そうなると、余計に人との関わり方が分からない。どうしたらいいか分からない。
というわけで今日は久しぶりに人と会話をして、久しぶりに他人との距離感を探った。
このままじゃやばいなと思ったけれど、これはまあ良い機会になったのではないだろうか。
がんばって人見知り治そうね。