ただの日記

毎日が週末

2022年5月26日

最近はずっと、死ぬことばかりを考えています。
こんな一文から始まると、痛いやつだって思われたりするのかな。でも構いません。だって本当の事だし。
誰にも言えない本音を、私はここで供養してあげるんです。

さっき、御手洗で用を足しながら、どうすれば痛くなく死ねるかな、と考えている自分に気がついて、かなしくなってたくさん泣きました。

どうして死ぬことばかり考えてしまうんだろう。
結局私は、死ぬことなんて出来ないのに。

生と死について考えるようになったのは小学生の頃からです。ここにも書いたと思うけど、責任から逃げるようになり始めたあの頃。
私は、生まれて初めて死のうと思いました。
もういいや、と思いました。つらい、とか、助けて、とか、言いたいことはたくさんあるのに、家族にも友だちにも言えなくて。そんな気持ちだけが膨らんで、大きくなって、自分が押しつぶされそうになっていることに疲れて、もう死んだらいいや、と思いました。

お風呂から出たら明日も学校に行かなくちゃいけないんだ、と思うと、ここで死んだ方が良いと思いました。湯船に浸かってのぼせてきた頃にシャワーホースを使って、自分の首を思いっきり締めました。衝動的な行動でした。それでも結局死ねなかった。気は遠くなりましたが、その分締める力が緩んで気を失っただけでした。そのまま溺れて死ねば良かったのに、シャワーが引っかかって顔が水面に浸かることはありませんでした。目が覚めて、生きていることを実感してから、私はまた泣きました。神様が死なせてくれなかったんだと思いました。今までの自分はさっき死んだということにして、新しい自分と生きていこうと思いました。やりたくないと思っていた習い事を辞め、新しく部活に入り直しました。第2章の幕開けだと、勝手に自分で決めて生きてきました。

こんなに死にたいと思ったのは、あの時ぶりな気がします。あの時と違うのは私がもう既に成人した存在であるということ。死ぬ方法の幅が広がっているということ。そして、死ぬ時にも責任が付き纏ってくるということ。

そもそも今の私が死にたい理由は、職場にあります。仕事がつらい。でも、辞めたいとは思わない。続けたいとも思えない。出来ることなら逃げたい。でも、ここから逃げたって結局働くことになれば、今の私の悩みは着いてくるもので、生きていれば働くことから切り離せるわけがなくて、それなら死んでしまおう、と思うくせに、死んだあとも家族に迷惑をかけてしまうことを恐れて、結局死ねなくて。

仕事をやめたい。やめられない。生きるのをやめたい。やめられない。死にたい。死ねない。今の私は、責任を宙ぶらりんに出来なくて、自身の存在意義を宙ぶらりんにしているみたい。なんで私って生きてるんだろう。私の存在が誰かの役に立ってるとは思えない。

こんな本音を受け止めてくれる友人がいないとは思いません。私の友人は本当に素敵な人たちばかりで、みんなしあわせになって欲しいです。しあわせになって欲しいから、私のネガティブな感情を聞かせたくないんです。私の話を聞いてくれたところで、友人たちが私に起こせるアクションはありません。これは私自身の問題だから、私が自己解決しなくちゃいけないから、友人は聞いてくれることしか出来ません。それでネガティブな感情を押し付けてたら、私は本当に嫌です。メンヘラ、とか、病んでる、とかそんな簡単な言葉で終わらせてほしくありません。

誰かに聞いて欲しい。誰に相談したらいいか分からない。誰のことも傷つけたくない。私のせいで、しあわせから遠ざかってほしくない。

そんな私のわがままを叶えてくれるのがここなんだと思って今日はきました。

2022年4月10日

先週、新型コロナウィルスに罹りました。

私の場合は、とにかく高熱が出て、ずっとウンウン唸ってるような、そんな日々を過ごしていました。
高熱の時のあの感じ、なんなんですかね。
ずっとつらい。別に身体中が痛む訳じゃないのに、ずっとつらいの。なんなんですかね。
あと高熱が出ると本当に「ウンウン」唸ってしまうのも、なんなんですかね。多分ですけど「嗚呼もう!」とかって叫んだりもした気がします。声が出ちゃうんですよね。つらすぎて。

味覚や嗅覚に異常は無くて、常に経口補水液が美味しい状況でした。それはそれでまずいんですけどね。

三日三晩、高熱でうなされて、解熱鎮痛剤で落ち着けて、また熱が上がって、みたいな毎日を送る中で、今日が何日で何曜日なのか、全く分からなくなったりもしました。
今の私が住んでいる部屋には、カレンダーも時計もありません。余計に浦島太郎になりました。

熱が少しずつ落ち着いてきた頃、今度は口内炎に悩まされました。ずっと痛い。高熱出始めた時くらいから居る気がする。ほんとやだ。その気持ちだけでした。鈍い痛みは頭から、鋭い痛みは唇から。心身共に疲弊しきってました。

今は口内炎もほぼ治って、熱も平熱まで下がって、少しずつご飯も食べられるようになってきましたが、今度は咳と鼻水が止まらなくて困っています。
横になってると多少は和らぐのですが、座っているとすぐゲホゲホしてしまいます。あんまり咳き込みすぎて肺に傷がついたり、気管支を痛めたりするのが嫌なので、咳き込みたくないんですけど、そういうわけにもいかなくて、結果つらいです。

体力も全然戻ってきません。1時間座ってられなくてびっくりしました。家のお布団が病院のベッドみたいに角度付くやつだったらいいのに、って何度も思いました。


久しぶりにここへ帰ってきたのは、なんか存在をふと思い出したからです。自分が生み出した言葉に触れたくなったからです。インターネットという大海原に垂れ流していた自分の言葉を、撫でたくなったからです。

久しぶりにここへ帰って来れて良かった。またいつか。

2020/09/05

生きてます。
あのクソ重ブログから早100日以上経ちました。ワニなら死んでましたが、私は普通に生きてます。

ここは私の公開日記なので過去の日記を消すつもりは無いですし、あれもまあ良い思い出(全然良くはない)として自分の中で消化出来つつあるので、良しとします。

6月9日。私の仕事が再開して。
6月19日。彼が事務所を退所して。
6月21日。某舞台のチケット抽選に応募して。
7月4日。大好きな推しのお誕生日を祝って。
そこから1ヶ月、何事も無く淡々と仕事をこなして。
8月16日。沼を開拓して。
8月30日。愛する担当のお誕生日を祝って。

そして今日、9月5日。某舞台のチケットが手に入りました。

こうして見ると、8月16日に新しい沼を開拓するまで、私本当に干からびた生活を送っていたような気がするわ。一切の記憶がございません。可もなく不可もなく、いちばんつまらない時間を過ごしてしまって居たのでしょうか。

全然そんなこと無かったわ。(過去ツイ遡ってきた)

推しに湧いてた。湧き散らかしてた。すっかり忘れてたけど(ごめんな)夏は一大イベントがあったわ。3~4年振りに沼を開拓した衝撃が大きすぎて忘れてたけど、愛で地球を救ってたわ。


あの日以来1度もログインせずに放置してきたここを久しぶりに書きたくなったのは、文字に埋もれたい気分になったからです。何か書きたい、そんな衝動が不意に起きたからです。
かと言って何か面白い事があった訳では無いし、新しい沼に関しては身バレがこわいから書きたくないし、なんだろうな、何が書きたいかな。

最近、結構自分の中ではハードル高めの買い物をしました。色々やったので金額的にはそこまで掛かってないですが、それを私が今持っているのだと思うとソワソワが止まりません。大人になったなと思います。


…そうだ大人。大人と子どもについて書こうかな。
私が思うに、人生のピークは18歳~20歳の2年間だと思っています。高校を卒業して、成人するまでの2年間。大人にも子どもにも振り分け難い2年間が、私は大好きでした。
ちなみに、ここで書く大人は「成人」を、子どもは「未成年」を指します。
私は大人になんてなりたくなくて、ずっと子どものままで居たいと思っていました。大人になれば、責任を持たなければいけないからです。
小さい頃から何かと責任感を強く持たされ、気がつけば、人前に立ち、周りを引っ張っていく存在に成っていました。人の上に立つというのは、やはり気持ちが良いものです。私が右と言えば一斉に右を向くし、左と言えば一斉に左を向くような、そんな素直な人達に囲まれていたからです。あの時はリーダーシップを取る事が楽しくて仕方ありませんでした。けれどもある日、「リーダー」で居続ける事を苦痛に感じたのです。それは小学校中学年になった頃でした。周りのやりたくない事が押し付けられ、都合の良いように使われ始めました。馬鹿な私はその事に気が付かず、せっせと毎日動きました。これがリーダーの役目だと思っていたからです。実際にはそうではなくて、ただ私が疲れるだけだったのに。

その日から私は責任を持つことが嫌になりました。そんな自分が嫌になる事もあります。今だって、「こうなったのは私のせいではなくて周りのせいだ」というような文面になっています。明らかな責任転嫁です。本当は自分に技量が足りなかっただけかもしれないのに、そうとは認めず、ただ周りのせいにしている、こんな自分が嫌でたまりません。だけど、それよりも責任を持つことの方が嫌なのです。他人には干渉せず、自分のことも干渉させず、"責任"を宙ぶらりんにする事で、私は責任から逃げるようになりました。でも、責任から逃げられるのは、子どものうちだけです。大人になればそうはいきません。だから、大人になんてなりたくなかったのです。

大人になりたくないと強く願い続ける一方、私はすくすくと健康に育ち、毎年1つずつ歳を重ねていきます。どうしても抗えないのは「時間の経過」です。私と他人の間で宙ぶらりんのままだった"責任"が、少しずつ私の元に近づいてきます。それは、弛んでいた糸が少しずつ張られ、その糸の先についている"責任"を、時間の経過という不可抗力が引っ張ってくるようでした。嫌でした。本当に、大人になりたくなかった。

大人になりたくなかった理由は他にもあります。
仕事や私生活に追われて自分の好き勝手に行動出来なさそう、とか、子どもの頃の後悔が押し寄せてきそう、とか。何も考えずに生きてるだけで褒められる子どもとはまるっきり違う動物になってしまうようで、そこには怖さもありました。
様々な経験を経て、私は「大人」になる事を夢見るようになりました。私が思う「大人」は、「広い世界への探究心と好奇心を忘れずに、自分の責任で、自分の好きなことをする人」のことです。視野を広く持ち、面白いことを見つけるレーダーを飛ばし、それに疲れたら甘いもので休憩して、また自分の好きなことを探し続ける、そんな「大人」になりたいと思いました。
それは、大人になってしまった今でも、強く思います。いや、大人になった今だからこそ、強く思うのかもしれません。子どもの頃には許されなかった運転も飲酒も夜遊びも、大人になってしまえば「自らの責任で」全てやる事が出来ます。私を見て、大人って楽しそうだな、と周りの子どもが思ってくれたら、いちばん嬉しいです。


だけど、やっぱり人生のピークは18歳~20歳の2年間だと思うんです。子どもの無邪気さを兼ね揃えたまま、新しい世界の扉を開いていく多感な時期。子どもだからこそ許される事と、大人だから出来る事の両方を上手く組み合わせて、この広い世界での遊び方を学んでいく時期。どちらにも属さない孤独感を味わって、心を動かし続ける時期。キラキラも、ドロドロも、全部が一緒くたになって自分の中に溶け込んでいく、大切な時期。
上手く言い表せないけれど、今風に言えば「エモい時期」だと思っています。

20歳を迎えた今でも、あの2年間がきっと人生の中でいちばん華やかで切なくて刺激的な2年間だったのだと信じてやみません。

今の私の目標は、その2年間を上回るような、刺激的な人生を歩める「大人」になる事です。

今日もちゃんと眠くなってきた!おやすみなさい。

2020/05/26

今の感情を何という言葉で表現すれば良いのか、私には分からないです。こんな事をここに書くこと自体間違っているような気もしています。だけど、どこにも吐き出せなくて、苦しくて、悶々としていて、泣きたくて、悲しくて、叫びたくて。ごめんなさい。こんな事を書くために始めたブログじゃないのに。本人以外の誰かの目に止まる可能性だって十分あるのに。見たくない人、もしも見てしまったのならごめんなさい。すぐに戻ってください。ここは私の感情を吐露する場所です。唯一の拠り所なんです。悪いことは言いません。合わない価値観に合わせて読む必要も無いです。早く帰ってください。



手越祐也くんへ。
私がジャニーズを応援し始めて8年ほど経ったある日、歌番組でチャンカパーナを歌う手越くんを見ました。誰よりも目立つ派手な金髪、中性的で可愛らしい顔立ち、力強い歌声。王道ジャニーズとして輝いている手越くんを見て、シンプルにかっこいいなと思いました。私が大好きなジャニーズがそこには居ました。
そして2年前、NEWSのコンサートに行った時、私の真隣を手越くんが通ってくれました。私はその時の、ファンを見つめる優しげな表情が忘れられなくて。私の真後ろに居た手越くんのファンに向けて、お手振りも投げちゅーもピースもウインクも、思いつく限りのファンサービスの雨を降らせていたあの光景が忘れられなくて。あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに、あんなに幸せそうに、ファンを喜ばせてくれるアイドルがこんな所に居たんだ、って一瞬で心を奪われました。
それは私の記憶に深く残るくらい、度肝を抜いて「アイドル」でした。
その様子はライブDVDを観ていても伝わってくるもので、ファンを目の前にすると表情を緩ませてしまう、そんな手越くんの事が、気がつけば大好きになっていました。
前提として、私は「ジャニーズ」が好きなので、もちろん手越くん以外のジャニーズも沢山見てきました。自分のファンが他のグループを見ている事に関して、嫉妬の感情を露にしたラジオを聞いた時、可愛らしい人だなと思いました。
イッテQでチャレンジ断念せざるを得なくなって悔しさを滲ませている顔を見た時、負けず嫌いな人だなと思いました。
ファンからのサプライズが嬉しくて涙を流しているのを見た時、素直な人だなと思いました。
ファンがプレ販でグッズ購入している様子を覗き見して「頑張らないと」と気合いを入れているのを見た時、ファン想いな人だなと思いました。
きっと私が今日までに見てきた手越くんは、間違いなく「アイドル:手越祐也」だったと思います。そして、私が大好きな手越くんもまた、「アイドル:手越祐也」なのです。
まだアイドルとして、ステージ上で輝き続ける手越くんが見たいんです。アイドルでありながら、バラエティで笑顔を届けてくれる手越くんが見たいんです。アイドル以上に、歌に拘って、歌で元気と勇気を与えてくれる手越くんが見たいんです。
ただそれだけなんです。
手越くんが好きです。どんな報道が出ても、どれだけプライベートの話が上がっても、この気持ちだけはずっと変わらないままなんです。
先日、今回の報道に耐えきれなくなって、今までずっと応援してきた「ジャニーズ」から離れようと決意しました。でも、どうしても諦めきれなかったんです。NEWSの手越祐也と、テゴマスの手越祐也と、ジャニーズの手越祐也と、まだ一緒に見たい夢が、見たかった夢が沢山あったんです。
30歳になったら「テゴマスの三十路」、おじいちゃんになったら「テゴマスの杖」、やりたいねって話を聞いた時から、私はずっとテゴマスの活動を待ち続けていて。
NEWSとして東京五輪に関われたら嬉しいな、って壮大な夢も語ってくれて、NEWSがもっと大きなグループになれたら、って浮かんだ夢もたくさんあって。
まだ一緒に夢が見たい。まだ、夢から覚めたくない。
私はNEWSが好きで、テゴマスが好きで、NEWSのメンバーが好きで、NEWSのメンバーが好きな手越くんも好きで、ファンへの愛が深い手越くんも、ファンを信じてくれる手越くんも、全部全部好きで、結局嫌いになんてなれなかったんです。
今だって、こんな報道が出ているのに、頭の中に浮かぶのは「だいすき」の4文字しかなくて、でもきっと、私と同じように、苦しくて悲しくてやるせなくて辛くてしんどいけれど「だいすき」の4文字が変わらず浮かび続けている人だって、この世界には居るはずで。

手越くん。手越くんには、人を笑顔にさせる力があると思います。手越くんの歌で何度勇気づけられたか、何度救われたか分かりません。
手越くんからしてみれば、私の存在なんて知らない赤の他人なんだろうし、そんな赤の他人のエゴで1人の人生をどうこうさせることなんて出来ないけど、私はやっぱり、手越祐也くんが大好きです。

待つのも去るのも人の自由。私は、待つ事にします。

2020/05/24

どうしよう。今の感情を書き記したいのに、なんと書けばいいのかわからない。今までの「好き」という感情が何だったのか分からなくなった。私は何を好きと言っていたのだろう。でも間違いなく、この感情は「好き」なのだ。彼を嫌いだと思ったことは無いし、きっと嫌いになれない。嫌いになんてなるわけが無い。だって素敵な人だから。本当に本当に、素敵な人だから。だけど「好き」という感情が偽りのような気がしてきた。魔法が解けたみたいな、目の前の霧が晴れたみたいな、そんな感覚になった。いつから狂ってしまったのだろう。楽しく彼に恋をしていたあの日々に懐かしさまで覚える。それこそ、狂ったように彼にぞっこんで、彼以外の姿が目に見えなくなった時だってあったのに。とても幸せだったのに。好きだ。好きだ。大好きだ。ずっと近くで見ていたい。ずっと応援していたい。もっと大きくなった姿が見たい。もっと一緒に素敵な夢をみたい。

…夢。そうか、これは全て夢だったのか。そんな感じになってきた。夢から目が覚めたのか。少なくとも今の私は、頭の中が覚醒している。どうやら今夜は眠れそうにない。

好きだよ。言葉にする度に嘘のような気がしてくる。どこが好きなの、と聞かれて、彼の好きなところを答えるのは簡単だ。だって好きだもん。でもきっとこれは皆が思う「好き」じゃないような気がする。こんなに好きなのに、こんなに不安になることがあっていいのだろうか。
私の素直な感情は「嫌いになんてなりたくない。好きでいたい。」という気持ちだ。「好きでいたい」とは、果たしてどういう意味なのだろう。好きでいることに何か追われているような感じがする。日々Twitterで情報を収集して、テレビを予約して、雑誌を買って、グッズを買って、コンサートに行って、これを使命感でやってきたような、いやそんな訳ない。好きだからやった。使命感なんてどこにも無かった。スタート地点は必ずそうだ。今、色んな言葉が浮かんでは消えて、掴めない感情の中で、これだけは嘘偽りないと言える。私が彼に出会った時、間違いなく、私は彼が好きだった。

今だってきっと、まだ彼のことが好きだ。好きなはずだ。
きっと今の一時的な感情に流されて、今回のグッズを買わなかったら近い将来で後悔するはずだ。この想いが再燃した時、「どうしてあの時離れたのかな」って後悔するはずだ。

後悔は後から悔やむと書く。この先、後から悔やむことがこわくて、使命感に追われているのかもしれない。そんなの、この先が訪れない限り分かる事じゃないのに。やっぱり私は狂っている。

人が何かに執着するのは、その何かに掛けた時間とお金を惜しむからだよ、と友人から教えてもらった。私は、今までにかけた時間とお金を惜しんでいるのか。そんなケチな人間に成り下がってしまったのか。今のところ、そんな気持ちは無い。これからの出費は考えよう、と思う反面、今まで費やしてきた時間とお金に後悔なんてしていない。あの輝きに満ちた時間は私の宝物だし、今手元にある無数の思い出も私の宝物だ。私が持っている、唯一の自慢アイテム。私の、唯一の財産。これを売るのは惜しい。売るなんて今のところは無理だ。お金に変わるとそそのかされても無理だ。だってこれは私の大切な思い出だもの。全てに思い出が詰まっているんだもの。
そもそも今の私の「好きでいたい」という感情は執着なのだろうか。使命感なのだろうか。どうして好きでいたいと思ってしまったんだろうか。彼らを好きでいる自分が好きなのか?彼らを好きでいなきゃいけない理由は?
それはやっぱり、まだ彼らのことが好きだからではないか。好きなのに、大きな声で好きだと叫べない現状が、もどかしくてつらいのではないか。このままきらいになる未来が訪れることを恐れているのではないか。…まただ。また私は未来を恐れている。何度言えば分かる。未来は、来てみないことにはわからないと。
彼らを好きでいたい理由がもうひとつ見つかった。私の存在意義だ。私は今までずっと彼らが好きで、ずっと彼らを見て育ってきた。物心ついた時から彼らが私の世界の中心にいた。楽しい記憶も、かなしい記憶も、嬉しい記憶も、くるしい記憶も全部彼らと共にある。そんな私から彼らを抜いたら、私は空っぽになってしまうような気がしているのだ。私には何も残らない。ずっと前からそう気づいていた。ずっと前からそう気づいていたから、ずっと前から無意識的に「好意に使命感を植え付けた」のかもしれない。私は彼らを好きでいないといけない。私が彼らから離れたら、私は空っぽになってしまう。

そうだ。これが一番の理由だ。ここまで書いてようやく気がついた。私が彼らを好きで居なきゃいけないと思うのは、私から彼らを取ったら何も無くなると思っているからだ。現に今もそう思っている。私は彼ら以外の娯楽を知らない。彼ら以上の幸せを知らない。彼以上に好きな人なんてどこにもいない。彼以上に私を熱狂させるものなんて、どこにもない。まだ知らないだけだと分かっている。空っぽでは無いかもしれないと思いたい気持ちもある。でも無理なんだ。それだけ私の人生に彼らは根付いている。

どうしよう。結論もオチも無い。ただ気づいた真実がかなしくてくるしくて、つらいだけだ。

2020/05/21

緊急事態宣言が解除される都府県が増えてきた。もう都道府県になっているのだろうか。
緊急事態宣言が解除されれば、毎日が週末だった私も、今までの日常を取り戻すことになる。
だけどそれは、今までの日常と似て異なるものだろう。
今まで通りの生活を送るためには特効薬の完成が必要になると思う。今まで通り人と接する事は出来ない。私の接客業はどうなってしまうのだろうか。残念なことに、距離を保ったり、こまめに消毒したりする事が難しい仕事だ。次から次へ流れてくるお客様を捌くかの如く、向かい合って接客しなくてはいけない。密は避けられなさそうだ。
とはいえ、いつまでも無職では居られないようになってきた。無職生活を初めてそろそろ3ヶ月が経つ。貯金が危うい。今まで切り崩して生活出来ていたが、最近金額を見るだけで憂鬱な気持ちになるようになってきた。それでいて、趣味には今まで通り注ぎ込んでいるので出費が嵩張るのは当たり前のこと。我慢できない自分が哀れで馬鹿馬鹿しい。でも、趣味まで今まで通りで無くなれば、私は生きていく意味を見いだせなくなるだろう。

今日は久しぶりに陽に当たって積極的に運動を行ったので非常に頭が痛い。足も痛い。疲れがひどい。コロナ老化で間違いない。
どうか、これで今までの運動不足が全て解消してくれますように。

2020/05/18

二次創作をする上で私が求めるのはリアリティだ。
いくら創作とはいえ、専門的な内容を描くとなれば、専門的な知識が必要になるのは当たり前だと思っている。
だからアニメやドラマなどで描かれる「違和感」があまり好きではない。何故そこでフィクションさを出してくるのか、と思ってしまう。だけど仕方ない。専門的な知識を得るには、それなりの時間と努力が必要だからだ。

先程あげた二次創作に対する指摘が、つい何分か前にダイレクトメッセージで送信されてきた。発音の表記の仕方がおかしい、というものだった。彼(もしくは彼女)の過去のツイートを見る限り、私が今回題材にしたものをとても愛していて、私の過ちは許されざるもののような気までした。あれだけ調べ込んだのに、やはり足りてない部分はあるのだと知った。途端にこわくなった。見ず知らずの人から指摘を受けて、自信を無くしてしまった。でも、ネットの海に創作物を流すとは、そういう事なのである。好き勝手自由に発信出来る手軽さはあるが、誰からでも閲覧出来るということを日々念頭に置くべきだと気付かされた。

今回、私が題材にしたものは、私が大人になったら嗜みたいことの1つだった。憧れだった。憧れ故に、沢山調べる事が出来たし、憧れ故に、指摘された時にヒヤッとした部分があった。憧れを調べあげたつもりでも、決して並ぶこと等は出来ない。憧れは、憧れのままでしかないと知った。
いつまでも憧れているのではなくて、自分で実際にやってみる事が大切なのだと気付かされた。
見ず知らずのあなたへ。今日は本当にありがとう。私もいつかあなたが歩んでいる道を歩みたいと思っている。こんなところでつまづいてしまったが、あなたたちは私を受け入れてくれるだろうか。
だけどまだ、その時期では無いから。その時が来るまで、まだ憧れは、憧れのままで。